東海道歩き04: 保土ヶ谷宿→戸塚宿→藤沢宿

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保土ヶ谷宿の本陣は、これまでで一番当時の雰囲気が残っていました。すぐ近くに脇本陣があった所と古い建物の旅籠屋の跡もあり、宿場町としての跡がかろうじて残っている感じです。

その先で、日本橋を出て初めての本格的な上り坂「権太坂」がありました。写真は、登る途中で横浜横須賀道路を横切る橋の上から坂を振り返ったところです。旅人が坂の名を尋ねたところ、耳の遠い老人が自分の名前を聞かれたと思って「権太」と答えたのがその名の由来とのことです。

権太坂を登りきり、当時の旅人が見晴らしの良い高台で休息した「境木立場」の跡がありました。ここが、武蔵と相模の国境です。この辺りは、権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続きます。

焼餅坂を降りていくと品濃一里塚です。日本橋を出て、初めて左右両方が残っている一里塚を見ることができました。ちょっとした小山のようにそびえ立っていて、想像以上に大きな目印で、当時はその木陰が休憩場所にもなっていたそうです。

この先で、品濃坂の急坂を降りました。保土ヶ谷宿からこの辺りまでは、神社やお寺以外の見どころがたくさんあって、期待以上に楽しめました。
その後、国道1号に合流してしばらくで、戸塚宿の「江戸方見付跡」です。宿場を抜けるところには「上方見付跡」があり、宿場の両側で出入りする人を見張っていた所です。

戸塚宿を過ぎ、見どころの少ない国道1号をひたすら歩き、今日最後の坂「遊行寺坂」を下って、遊行寺に立ち寄りました。以前、この近くに住んでいたこともあるのですが、30年以上ぶりに訪れた境内は、写真の大銀杏の木を含め何もかも覚えてませんでした。

遊行寺から藤沢宿の本陣跡を経て藤沢本町駅までの道は、20km以上歩いてかなりヘトヘトでしたが、写真のような古い家があったり、道路の随所に当時の街道の写真が描かれていたりして、街をあげて旧東海道をフィーチャーしている様子に元気付けられました。

弥次さん喜多さんは、日本橋を発って最初の宿が戸塚宿でした。お江戸日本橋七つ立ち♪の七つは午前4時頃らしく、昔の人は朝早くから戸塚宿まで歩くのが普通だったようです。我が家は日本橋から戸塚宿は4日目なので、はるかに負けていますが、それだけ歩くのがどんな感じかはよく実感できました。都心の会社で大地震に見舞われて電車が止まり、歩いて帰宅することになったとすると、ちょうど保土ヶ谷宿まで歩く感じだなということも分かりました。3日間かけて歩いた距離なので、一気に歩くのはやはりかなり無理な感じがします。

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