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モザイクの街マダバを巡る
マダバの街の観光は、まず聖ジョージ教会にあるモザイクのマダバ地図を見に行きました。6世紀頃のパレスチナが実に正確に描かれていて、地名はギリシア語で記入されています。
上の写真では、手前に地中海、左奥の楕円形の街がエルサレム、上部中央の死海には、塩と金を積んだ船が描かれています。
下の写真では、死海に流れ込むヨルダン川に魚が泳いでいますが、一番右側の魚は、死海に驚いて戻ってきています。その魚のすぐ下にΒΕΘΑΒΑΡΑと書かれている所が、昨日訪れたバプティズム・サイト(イエス洗礼の地)になります。昨日のネボ山(モーセ終焉の地)は、残念ながら地図にはありませんでした。
マダバでは、考古学公園、殉教者教会、十二使徒教会なども訪れて、歴史的なモザイクの数々を見ましたが、それよりも印象的だったのはモザイク学校です。
学校の中には、材料となるいろいろな色の石や、作成過程のモザイクなどがあり、妻はここに1~2ヶ月留学してモザイクに挑戦してみたいそうです。
天気が良く、外気温は既に30℃を超えました。商店で買ったアイスクリームは、たったの0.1ディナール(18円)で、ヨルダンの物価は嬉しいです。
サロメが舞いヨハネの首を求めた丘に登る
マダバの町を出て、また死海方面に向かい、マカエラス遺跡の駐車場に車を停めました。この先の丘の上にある遺跡まで歩いて行くことになります。丘の向こうには、青い死海が左右に広がっています。
20~30分の急な登りの後、頂上のマカエラス遺跡に着きました。ここはヘロデ大王が築いた城塞であり、『サロメ』の舞台でもあります。ここで、イエスに洗礼を授けたヨハネの首が刎ねられました。
聖書には「サロメ」という名前は出てきませんが、「ヘロデヤの娘」というのがサロメです。
そのころ、領主ヘロデはイエスのうわさを聞いて、家来に言った、「あれはバプテスマのヨハネだ。死人の中からよみがえったのだ。それで、あのような力が彼のうちに働いているのだ」。というのは、ヘロデは先に、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、ヨハネを捕えて縛り、獄に入れていた。すなわち、ヨハネはヘロデに、「その女をめとるのは、よろしくない」と言ったからである。そこでヘロデはヨハネを殺そうと思ったが、群衆を恐れた。彼らがヨハネを預言者と認めていたからである。さてヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、ヘロデを喜ばせたので、彼女の願うものは、なんでも与えようと、彼は誓って約束までした。すると彼女は母にそそのかされて、「バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、ここに持ってきていただきとうございます」と言った。王は困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、それを与えるように命じ、人をつかわして、獄中でヨハネの首を切らせた。(マタイによる福音書、第14章、第1〜10節)
この山の辺りには洞穴がたくさんあり、その1つにヨハネが首を刎ねられるまで囚われていたそうです。
キングス・ハイウェイを走り、十字軍の城に入る
次の目的地のカラク城に向かうのに、最初は死海沿いに行こうとしましたが、道がよく分からなかったため、少し戻って、山あり谷ありの昔からの田舎道であるキングス・ハイウェイを走りました。それが正解でした。
地球の裂け目のような巨大なワディ(涸れ谷)が次々と現れ、途中2ヶ所、真っ青なダム湖もありました。周りは乾燥しきった荒地なのに、どこからこんなに水が集まってくるのでしょう。
カラクの街に入る前から高台の上に崩れかけた城が見えました。12世紀に十字軍が要塞として造ったカラク城です。
標高1000mの丘の上にあり、シリアで見たクラック・デ・シュバリエという、やはり丘の上に築かれた十字軍の城塞によく似た感じです。クラック…の方は、アラブの英雄サラディーンによる攻撃に耐えましたが、カラク城は、完成から30年も経たないうちにサラディーンに攻め落とされました。
入城して、何層にもなった城塞の中を見てまわりましたが、地下層へ降りていくと懐中電灯がないと歩きづらいほど真っ暗でした。
ペトラまで、まだ100km以上あるので、カラク城にある考古学博物館を見たり、道中のショーバック城に立ち寄る時間はありませんでした。もう1~2日、日程が欲しいところです。
18時頃にペトラに到着。レンタカーを返却するハーツのオフィスが別の所に引っ越していて少し手間取りましたが、スタッフは親切な気持ちのいいアラブ人で、コーラを振舞ってくれたり、隣の土産物屋を案内したりした後、ホテルまで送ってくれました。