日本最長の貞山運河に日本最古の石井閘門

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仙台2日目は、日本最長の運河である貞山運河(ていざんうんが)を偵察しました。

石井閘門

貞山運河の北端区間は北上運河と呼ばれていて、最北端は石巻市旧北上川石井水門でつながっています。

石井水門(写真↓)は、石井閘門と旧北上川の間にほんの5年前に造られたものです。

明治時代に造られた石井閘門(写真↓)は、日本最古のレンガ造り西洋式閘門で、可動ゲートを持つ閘門としても日本最古のものです。

ところが、このゲートの上縁は旧北上川の堤防より2mも低く、堤防機能を損なっていました。

そこで、近代土木遺産であり重要文化財である石井閘門(写真↑手前)はそのまま残し、新たに堤防機能を持つ石井水門(写真↑奥)を設けたわけです。

石井閘門のもう1つのゲート(写真↓)の先に北上運河が真っ直ぐ延びています。

そもそも閘門(こうもん、英語ではロック)とは、水位が異なる2つの水路の間で船を通す仕組みですが、2つのゲート(写真↓は運河側)を交互に開閉してその間(閘室)の水位を調整することで、船が安全に通行できるわけです。

少し運河側へ歩いた所から振り返ると、2つのゲートを1枚の写真に収めることができました。

石井閘門のそばの「北上川・運河交流館 水の洞窟」という無人博物館にあった北上運河に関する説明パネルがとても役立ち、その一部を当ブログ記事でも使わせていただきました。

釜閘門

次に、北上運河が定川を横断する地点にある釜閘門を見に行きました。

運河交流館の説明パネルより

釜閘門を東側から見た写真↓です。手前の狭くなった部分にゲートは無く、奥の2つのゲート(手前は開いていて、奥は閉じています)が閘門機能を提供しています。

開いている方のゲートを反対側から見た写真↓です。

閉じている方のゲートを真横から見た写真↓です。

その先の定川との交差点を望んだ写真↓です。定川は右の橋の方から左へと流れていて、北上運河は手前から奥へと続いています。

その奥の方(つまり定川を挟んで釜閘門の反対側の北上運河上)にも閘門の跡がありましたが、今は荒れ果てた様子で、近付くこともできませんでした。

野蒜築港跡

次に、北上運河の南端が東松島市鳴瀬川につながっている所を見に行きました。

運河交流館の説明パネルより

この辺りの北上運河は、両側の護岸も含めて広々と堂々としていて、北端側とは対照的です。

写真↓が、左側からの北上運河が、右から流れてきて左奥の海に注いでいる鳴瀬川につながる地点です。

堤防の突端に設けられた石碑(写真↑右側)は、野蒜築港跡を示すものです。

明治政府が、長崎・横浜より先に近代港湾に取り組んだのが野蒜築港で、北上運河もそこから内陸への水運用として掘られました。

ところが、完成3年後に台風で崩壊し、そのまま放棄されてしまった「幻の港」なのです。

ここは、航空自衛隊松島基地が近いので、目の前を次々に戦闘機が通り過ぎて着陸していました。

先ほどの釜閘門を見学していた頃には、ラッキーなことにブルーインパルスが編隊飛行をしているところも見ましたが、写真には撮り損ねました。

貞山運河

最後に、松島湾の反対側へ行き、貞山運河が仙台市七北田川からさらに南に延びている区間を見に行きました。

まっすぐに延びる水路の両側に自然が残っていて、気持ちの良い景色です。

この区間では、週末には貞山運河をクルーズする遊覧船も出ているようですが、今回は平日に訪れたので、残念ながら水の上に出ることは叶いませんでした。


貞山とは伊達政宗の法名で、政宗が構想した内海航路が明治になって実現した際に、政宗の志を継ぐ運河ということで貞山運河と命名されたそうです。

今回訪れた区間からさらに南へ、貞山運河はまだまだ続いていて、地図の上で追いかけると本当におもしろいです。

北部の北上運河の方は、閘門はありますが、水があまり綺麗ではないことが今回の偵察で分かったので、いずれ南部の方をさらに探検したり、実際に水の上に出られればと思っています。

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