角幡唯介さん講演会を聴き、探検について考える

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日本有数の探検家であり作家でもある角幡唯介さんの講演会「読むこと、書くこと、探検すること」に行ってきました。

角幡さんの講演会は、これまでに2回、モンベル冒険塾で聴いたことがありますが、今回は横浜市南図書館が主催するので、探検すること(行為)と、それについて書くこと(表現)との関係という、まさに聴いてみたかったことが聴けました。

角幡さんと同じ大学探検部出身の探検家であり作家である高野秀行さんと角幡さんの対談本『地図のない場所で眠りたい』(2016年)には、お二人とも探検自体よりも文筆で勝負しようと思っていると書かれていて、ちょっと意外でした。

読む人にウケるように書くことに引っ張られすぎると、本来の純粋な探検が歪められてしまうのではないかという葛藤が出てくるわけです。

では、そもそも「探検とは何か?」については、2018年末のモンベル冒険塾で、角幡さんは、本多勝一氏の探検の定義「命の危険があり、主体的であること、できればパイオニアであること」から始まって、それだと今のエベレスト登山も探検と言えなくもないが、システム化されたそれはもはや探検とは思えないので、「脱システムが探検」という持論を展開していました。

角幡さんの『新・冒険論』(2018年)でも、「脱システム=冒険の社会的意義」として、システム内で甘んじている人、今の日本で冒険への寛容性がなくなっていること、人々が管理されることに鈍感になっていることへの批判などが書かれています。

2018年のモンベル冒険塾での角幡さんの講演は、前半の探検論に続いて、後半では極夜旅行の話がありました。『極夜行』(2018年)は、チベットの『空白の五マイル』(2010年)以来の渾身の冒険で、極夜の厳しさと辛さがよく伝わってきたし、人間と犬との関係や、連日の暗闇が人間精神に及ぼす影響などが印象に残りましたが、今一番やりたいのは、極地生活者だそうで、極夜で脱システムはやったので、またシステム内でもっと極地での生活がうまくできるようになりたいそうです。狩猟者となると、良い土地というのは獲物がいる所で、土地の見方が変わるという話もおもしろかったです。

しかし、今日の講演で、角幡さんは、探検(行為)と執筆(表現)のバランスについて、以前はどちらもと思っていたけど、今は突き詰めれば自分は行為の方を選ぶ、今一番やりたい行為である極地生活者となって、そのことを執筆しても、とても主観的な行為なので、あまりおもしろい話にはならないかもしれない、それでもそれをおもしろいと思ってくれる少数の人に伝われば良いのかもしれないと逡巡されていました。

私も大学探検部出身ですが、探検部には「ひとりごと」と題された何冊ものノートが先輩たちの代から引き継がれていて、その中には「探検とは何か?」についての葛藤が延々と綴られていました。そういうことにこだわるのは、探検部員や探検部出身者の「あるある」なようです。

探検と執筆のどちらが目的でどちらが手段かと考えると答えが出にくいですが、どちらも自分の人生を表現する手段だと考えればスッキリできるような気がしています。

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コメント

  1. SATAZ より:

    やっていることはそんなに変わらなくても、私がいたワンゲルだと自分達の行為に葛藤するってなかった気がします。○○山に登るとか、平地でもどこかに歩いて行くとか目的が割りとはっきりしていたからですかね。
    興味深い話をありがとうございました。

  2. Coot より:

    コメントありがとうございます。探検部だと、北アルプスの山を登るにしても、西表島を縦走するにしても、ワンゲルや山岳部とどこが違うのかのを説明できないとダメみたいなところがありました。先輩からそう言われるとかじゃなくて、自分達自身がモヤモヤしちゃう感じで。なので、ありとあらゆる屁理屈を生み出したり、コンパでもそんな話で熱くなったり、青春していたんですね〜。

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